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2005年12月28日 (水)

「すぐり」の経歴⑧(地域振興整備公団、そして都市再生機構へ)

 岩手県から呼び戻され、配属されたのが地域振興整備公団です。地方都市のニュータウン整備を統括する部署の部長代理です。三重県では上野新都市が担当事業であり、中勢北部サイエンスシティは残念ながら産業系の事業なので直接の担当ではありませんでした。この本業をこなしながら、都市公団との合併・独立行政法人への移行が1年後と決まっていましたので、その準備の方がたくさんありました。
 1年後、昨年の7月ですが、独立行政法人都市再生機構に移りました。業務の内容はニュータウンから「全国都市再生」、特に地方都市の中心市街地の活性化への支援業務に変わりました。
 職員みんなで手分けしながら全国の都市を訪問しましたが、三重県も訪問しましたよ。県内の市町村の状況を聞き、担当者が幾つかの市町村を訪問しました。四日市で昨年実施した「都市再生大学校」はその活動が実った実績です。
 私自身は、少し前までいた岩手県盛岡市、山口県岩国市、高知県高知市、沖縄県の那覇市と具志川市(現うるま市)などを受け持ち、頻繁に現地に出かけました。
 盛岡市では、古くなったバスセンターの再整備という長年の課題に取り組み、及び腰の市役所と親会社の意向で動きにくいバス会社に対して、手間を掛けてほぐすような作業でコンセンサスを少しずつ積み上げていきました。
 岩国市では、米軍基地の前に約100haもの規模で区画整理の都市計画決定がなされて40年も動いていない地区があり、住民参加型でゼロからまちづくりに取り組もうという市の手伝いをしました。市長も非常に前向きで住民の会議に何度も参加して熱意を披露してくれましたし、職員の方々みな本当に熱心に取り組むので、何とか前に進められるよう一緒に取り組みました。盛岡市にしても岩国市にしても、まちづくりというのは本当に時間が掛かる息の長い取り組みだという典型例であり、私が異動したあとも引き続き取り組まれています。
 高知市では、「街なか居住の推進」というテーマに取り組むモデル都市に手を挙げてこられ、具体的な地区をモデルとして実践的な検討を行いました。商店街協同組合の会長さんも、これからの商店街の発展は周辺に人が住んで賑わうことが不可欠だという認識で、熱心に前向きに取り組まれました。今後が大いに期待されます。
 沖縄については、都市再生機構の初代沖縄担当部長を努めたこともあり、何度も足を運びました。那覇市の国際通りの活性化に向けたワークショップの開催、具志川市では区画整理事業と住宅地区改良事業の合併施行に加えて、集約換地したブロックで商業拠点施設を整備するという意欲的な計画を作り、その実現に向けて取り組みました。地権者さんの勉強会などにも参加し、夜遅くまで泡盛を飲みながら語り合いもしました。
 都市再生機構では、都市再生コーディネートという新しい形態の業務の立ち上げに取り組み、暗中模索、試行錯誤を繰り返しました。誰も成功するスタイル・パターンを見いだしておらず、しかし地方の公共団体からは熱い期待を寄せられ(でも委託費は多額には用意されない)中、使命感・公共性と採算性との狭間で悩み続ける毎日でした。せめてもう1年引き続いてやりたかったのですが、人事異動のため、現在の部署に転勤となった次第です。

「すぐり」の経歴⑦(今度は岩手県庁に赴任)

 岩手県には建築住宅課長として3年3ヶ月余も在職しました。最初の大仕事は住宅月間中央イベントの準備でした。宮家も来られる非常に大規模な行事です。本番まであと6ヶ月でしたが、中身はまだ全然具体化されていませんでした。実は、長崎県に出向しているとき、同じイベントを地方都市で初めて引き受けることを受諾したものの、その後人事異動で離れてしまったという経緯があり、実施段階を担当することになったので「併せて一本!」などとからかわれたものです。
 イベント企画会社は全国大手のD社でした。見栄えはするが金のかかる提案ばかりしてくるので、打ち合わせの度に何度も逆提案しながら議論を重ねていきました。ある日の打ち合わせのこと、D社のリーダー格が「我々には効果的なプレゼンは考えられるが、岩手県さんのような心のこもった企画の提案はできません」と言ったのです。私は我が耳を疑いました。天下のD社が完全に白旗を揚げるとは!。でもそこからお互いのコラボレーションが本物になっていったような気がします。極めてタイトなスケジュール、タイトな予算でしたが、D社はよく頑張ってくれました。とても満足いくイベントになり、大成功でした。私がここで言いたいことは自慢話ではなく、コンサルへの業務委託などアウトソーシングする際にも、発注者・当事者として責任感とエネルギーを十分に注がなければいい成果は得られないということです。それをつくづく実感しました。
http://www.judanren.or.jp/chuo-event/album/00index01.html
 長崎県への出向時は市町村に住宅マスタープランの策定を働きかけましたが、岩手県では県のマスタープランの改定に直面しました。マスタープランというものの「功罪」「限界」「役割」というものについて信念に近いものを既に持っていましたので、陣頭指揮を執って策定作業に取りかかりました。個々の事業実施や地区の課題解決は地元の人たちが責任を持って取り組むべきですが、そのよりどころとなるようなものを提供したいと考えました。
 二箇年にまたがりましたが、満足いくものができたと思います。基本目標を『住み手と作り手、みんなで創り、みんなで育てる「いわての住まい」』としました。これは、「県民(住み手、作り手)と行政、関係機関のみんなが協力・連携するんですよ」「作って終わりではなく育てていくものなんですよ」「いわてらしさを大切にして下さいよ」といった心のこもったメッセージを織り込んで作ったフレーズです。
 評価は第三者や地元の人たちに委ねたいと思います。ただ、ときどき今の担当者とも話をするんですが、最近、5年経過後の改訂作業のタイミングになったにもかかわらず「変えるところが見つからない」と言っているのを聞くと、いいマスタープランを作ったのかなあと振り返る今日このごろです。
 その住宅マスタープランの中に、計画の実現に向けた推進体制として、官民・関係者・専門家が一体となって取り組む「いわてハウジングフォーラム」という緩やかな組織の設立を記載しました。特に役所は、人事異動で担当者が替わると考え方や熱意が引き継がれないことが多いので、やはり目に見える「器」を作っておいた方が継続するだろう、効果的だろうと考えたからです。民間も幅広く巻き込もうとすると手間と苦労は格段に増すものですが、熱意と勢いで何とか発足までこぎ着けました。言い出した私は発足直後に岩手を去りましたが、その後も、建築士を中心とする民間と県・市町村とで地道に活動が続けられています。住まいづくりのセミナーを連続して開催したり、高齢者居住分科会を立ち上げて更に深く調査研究に取り組んだりしていると聞きます。主唱者としては嬉しいことだし、活動が末永く続いて、目に見える成果が出てくることを心から期待したいと念じています。
http://www.jutakuplaza.com/forum/index01.html

「すぐり」の経歴⑥(再び本省で再開発を担当、さらに阪神・淡路の復興担当へ)

 選挙に出るということで辞めた先輩の後任として急遽本省に呼び戻され、住宅局で再開発を担当することになりました。ちょうど住都公団の改革、規制緩和、地方分権、中心市街地活性化、経済対策などの重要テーマが重なり、目が回る忙しさでした。伊勢市駅前の再開発事業が、事業認可後になって「やめたい」ということになり、当時はまだ法律上事業廃止の規定がなかったものですから、事務処理に非常に苦労しました。地元の話題とはいえ、楽しくない思い出です。
 続いて、阪神・淡路復興対策本部という5年間の時限組織の最後の1年を受け持つことになりました。応急仮設住宅の解消がかなり注目されていましたが、ちょうどタイミングよく?トルコで大地震が発生し、この仮設住宅を提供することになりました。地元兵庫県と外務省の間に入って調整したり、現地への技術者チーム(国際緊急援助隊)の派遣のアレンジなどで奔走しました。最も障害になったのは実は外務省の頭の固さだったんですけどね。トルコの現地での仮設住宅再建設はトラブル続きで、派遣された方々は大変苦労されました。予想外のこと、要望通りにならないことの連続で。しかし、海外で技術協力をした経験に照らせばそんなことは「想定内」であって、うまくいかないことを前提に最善を尽くすしかないのです。当初の目論みを下回ってしまいましたが、彼らはベストを尽くして一定の成果を挙げ、事後処理の指示も出した上で帰国しました。ところが、翌年1月、震災5周年の記念番組で某公共放送がこの仮設住宅提供を「大失敗で我が国の恥さらし」と報じたので関係者一同カンカンになりました。視聴者受けを狙った「結論ありき」の強引な編集としか思われませんでした。抗議をしても反省も謝罪もしてくれません。まさに放送した者勝ちのようなものでした。ところが、「拾う神あり」と言うのでしょうか、慶應義塾大学の先生が、ご専門の立場からこの問題をメディアで論じて下さいました。放送の問題性を指摘することが主眼ではありませんでしたが、極めて公平かつ正確緻密な分析に関係者一同救われた思いをしたものです。
http://www.imr.or.jp/

「すぐり」の経歴⑤(長崎県庁に住宅課長として赴任)

 タイから本省に戻り、二つの部署を経験したのち、長崎県に住宅課長として出向しました。長崎県は住宅政策やまちづくり政策の分野では「地方の星」のような存在で、既に様々な実績を上げていたところです。
 住宅行政が担当でしたから、当時重要な課題だった「住宅の建設コスト低減」に取り組み、コンペで実物のモデル住宅を作って公開展示をしました(よくテレビにも出ました)。
 地元の材料と技術で、消費者のニーズに合った住宅を作ろう!地場産業として発展しよう!という趣旨で設計事務所・工務店・木材業者に呼びかけ、県内4カ所で何回もワークショップを開催し、「自分たちが何をすればいいのか」をとことん議論しました。これを「住宅産業近代化」と呼んでいました。あなた方自身の問題なんだよ!!と叱咤激励したものです。
 また、地域の住宅政策や住まいづくり・まちづくりの進め方の基本となる「住宅マスタープラン」をすべての市町村に作ってもらおう!と考え、たくさんの市町村に行脚して毎年度10市町村くらいずつ取り組んでもらうことにしました。単にコンサルに委託して原案を作ってもらうのではいくら内容が盛りだくさんでも活用されないだろうということで、「内容は見劣りしても偏っていてもいいから自分たちで作って下さい」ということを申し上げ、地元の住民や関係者によるワークショップ形式で策定に取り組む方針を出し、それぞれに頑張って頂きました。私の異動後も取り組みは引き継がれ、今や40市町村ほどで策定されるに至っており、全国的に見ても飛び抜けた実績になっています。
http://www.hope-web.jp/sakutei/img/ichiran.pdf

「すぐり」の経歴④(JICA専門家としてタイへ派遣)

 都市計画分野、具体的には土地利用や建築用途の規制に関する技術協力を担当する専門家として、タイのバンコクに行きました。タイ国政府の内務省都市地方計画局に配属され、局長以下の幹部職員やカウンターパートと呼ばれる同僚に対して共同作業を通じて必要な技術・知識を移転する仕事です。2年余りの滞在期間でかなり充実した成果をまとめることができました。
 一つだけエピソードをご披露します。技術協力の成果発表のためのセミナーを開催しましたが、終了後の打ち上げパーティでのことです。両国の関係者が参加しているのに、最初のうちはそれぞれで群れを作り、相互の交流がなく、盛り上がらずに困った状況でした。あらかじめ用意しておいた芸だったのですが、頃合いを見計らって紋付き袴姿に着替えて尺八を吹きました(私がです)。曲はタイの国歌を演奏しました。コンサートなどで冒頭に国歌や王様をたたえる曲が流れると聴衆全員が起立するお国柄なのでちょっと心配もしたのですが、実際には大いにタイ側の参加者から喜ばれました。その後は、「ではタイ側からも」という感じでお互いに歌を披露し合いながら和気あいあいとなってとても盛り上がりました。異文化、異邦人とも工夫をすればコミュニケーションが取れるということを実感した一コマでした。

「すぐり」の経歴③(建設省に入る)

 昭和58年、建築職として建設省に採用されました。入省後のことについて語り出すと長くなりますので、ここではサラッと触れるだけにします。採用されてすぐ千葉県庁の住宅課に出向し、2年間、千葉県内の市町村の方々とともに公営住宅や住環境整備事業の仕事をやりました。今でも交流が続いている方もいます。その後、本省に戻り、都市局や住宅局で係長としてまちづくりや住宅政策の仕事に従事しました。
 今はもう国も仕事ぶりがすっかり変わってしまいましたが、当時は全国から来られる地方公共団体の方々と事業計画認可や補助金執行をめぐってケンケンガクガクの議論をしました。現場も見せてもらいましたし、お酒も飲みました。大変勉強になりました。その相手には三重県庁の方々もいらっしゃいます。津市や松阪市、磯部町などの事業のことでよく協議をしたものです。

「すぐり」の経歴②(東京工業大学で建築を学ぶ)

 最初から余談ですが、この大学は津では無名だったようで、中学校の進路指導の先生に「お前、大学どこ受けるんや?」と聞かれて「東工大です」と言うと、「……それ二期校か?」と聞かれたものです。
 実は中学生の頃から「マイホームの設計」というテーマに熱中し、県立図書館で本を借りたりして住宅の設計の勉強を独学でしてましたので、その意志を貫き大学では「建築」に進みました。
 東工大の建築学科で住宅の設計を本格的に勉強するはずだったのですが、デザインを教えて下さる先生の指導に非常に違和感を感じてしまいます。あれこれ悩んだ末に、「一個一個の建築がどんなに素晴らしくても、勝手気ままな設計をしたんではその集合体である「まち」がよくなるとは限らない。都市計画やまちづくりが重要だ!」と、やや単純に(純粋に?)結論を得て、官公庁を目指すことになりました。学生間で調整がつけば大手ゼネコンに無試験で就職できたのに、わざわざ公務員試験にチャレンジするのも変わり者だと思われました。なお、デザインを教えて下さった教授(あの頃も現在も高名な建築家)に関しては、やや反面教師的な意味で感謝をしています。結果的によい進路を見いだすことができたのですから。

「すぐり」の経歴①(誕生から高校卒業まで)

 昭和34年11月、一身田で生まれました。伊勢湾台風は母のおなかの中にいたので記憶がありません(当たり前!)。父は安濃村出身の公務員で、東海近畿農業試験場(現在の野菜茶業研究所)勤務の技師でした。高田幼稚園を経て一身田小学校に入学しました。
 小学校ではそこそこ優秀な子どもだったと思いますが、地元ということもあって特に気負い無く高田中学校を受験し合格、3年コースに進学しました。更に(当時の)県立高校の第二群を受験し、津高等学校に進学しました。
 クラブ活動は中学校時代に続いて「軟式庭球」に熱中しましたが、と同時に生徒会活動にも積極的に参加。半年ごとに会計、副会長と「歴任」し、3年生の前半で生徒会会長を務めました(余談ですが、小学校6年のときも児童会の会長をやりました(^_^)v)。正義感とか熱い気持ちみたいなものを人一倍持ってたような気がしますが、悩んだり、空回りしたり、暗中模索、試行錯誤だったような気がします。大した実績を挙げた記憶はありませんが、覚えていることと言えば、生徒自らできることとして「下駄箱の修理」を企画し、休眠状態だった委員会を動員して実行したとか、硬式野球ばかり特別扱いで応援することに疑問を感じ、すべてのクラブ活動の公式試合をみんなで応援しよう!と呼びかけて実際にサッカー部の応援に行ったりしたとか、「みんなでできることからやろうよ」という未だに持っている信念のようなものが既に発揮されています。言い換えると、現在もその頃からロクに進歩していないのかもしれません(^_^;)。
 大学受験は、3年生の夏までクラブ活動(軟庭)と生徒会活動で明け暮れていたため、準備が大幅に遅れたことを言い訳にして、試験科目の少ない国立の一期校と二期校(昔の制度!)を受けることにしました。当時「共通一次試験」が昭和53年から導入されると噂され、もし共通一次になったらお手上げだなぁと思っていたら、ラッキーなことに導入が昭和54年からとなり救われました。入学試験の方は、私立大学2つに不合格になったものの、第一志望の東京工業大学にだけ合格するという、ハラハラ、ラッキーな結果となりました。

「すぐり」とはどんな人物か

 このホームページ「合併・津市の未来を考える!」において、幅広いテーマについて、活発に意見を展開している、この「すぐり」とはどんな人物なのか。意見への理解を深めて頂くためにも、人物を知って頂くことが必要と思います。従って、単なる「自己紹介」ではなく、主な経歴とそこでの実績を順次ご説明いたします。書いてみるとずいぶん長くなりましたので、適当に飛ばして読んで下さい。